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【オリジナルSS】Nameless【初夏のRadiotalk朗読大賞】

Nameless

昨日はソファーで寝てしまったらしい。軋んだような身体の痛みで目が覚めた。身体だけじゃなくて頭もモヤがかかったように痛い。部屋の電気は点いたまま、壁の時計は6時を指していて、カーテンの奥の薄暗さで夜だと気づき溜息が出た。身体をゆっくり起こし、洗面所へ向かい冷たい水で顔を洗う。ふと鏡を覗くと、違和感があった。あれ?僕ってこんな顔してたかな?鏡に映るのは自分自身のはずなのに、知らない顔の男がそこにはいた。そういえば昨日はどうしてソファーで寝たんだっけ?昨日はなにがあったんだっけ?今日は何月何日なんだろう?リビングに戻りスマホを探す。散らかった床に落ちていたスマホを拾い、固まってしまった。パスコードが思い出せない。あれ?僕は一体誰なんだ?僕は僕の名前さえも忘れてしまったらしい。

思い出そうとしてもなにも思い出せなくて、知らない部屋の知らない僕はソファーに座って頭を抱えた。すると、外からなにか音がする。カーテンを開けると、窓の向こう側で綺麗な白猫が鳴きながらカリカリと網戸を引っ掻いていた。

「開けてくださいにゃ。」

驚いたことにこの猫は人間の言葉を喋っている。言われるまま窓を開けると猫はちょこんと座り、

「ご飯頂けますか?」

と首を傾げた。

僕は戸惑った。この猫は僕が飼っていたのだろうか?ご飯と言われてもなにをあげたらいいんだろう。僕は猫になにも思い出せないことを打ち明けた。

「それは記憶喪失ってやつですね。人間は大変だ。それよりご飯頂けますか?」

僕は情けないながらも、ご飯のことさえわからないことを猫に告げる。すると、猫はいつも朝と夜にご飯をもらいに来る野良猫であること、自分のためにカリカリを用意してあること、そして名前はまだないことを教えてくれた。

「それにしても元気がないですねぇ。」

ご飯を食べ終わった猫が毛繕いをしながら言う。

「特別に私のお腹撫でてもいいですよ?」

猫はゴロンと横たわりお腹を見せた。そっと白いお腹に触れると、あまりの暖かさに思わず涙が出た。するとどうだろう。不思議なことに今までの記憶が一気に目の前を駆け抜けた。そうだ、僕は昨日恋人と大喧嘩をして別れてしまった。高校から付き合っていてあんなに仲が良かったのに、社会人になった途端すれ違いの喧嘩が増え、彼女はさよならと部屋を出て行ってしまったんだ。そうだ、僕は、僕の名前も思い出した。そのことを猫に伝えると、猫はにゃあと答える。何度話しかけても猫はにゃあとしか鳴かない。そうしているうちに起き上がって、そのまま薄暗闇に消えていってしまった。

あの白猫はなにも思い出せない僕に暖かさと記憶をくれたんだ。今度来たときには名前をつけようと思う。窓から入る風は少し夏の匂いがした。

End.


【後書き】

Radiotalk内での企画「初夏のRadiotalk朗読大賞」用に書き下ろしたショートショートです。どなたでも朗読可能です。企画エントリーされる際はRadiotalkの収録配信をしたのち、私宛にTwitterのDMもしくはRadiotalkのお便りにてお知らせください。

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